音のタンス 水谷川優子

私の職業はチェリスト、文字通りチェロを背負って生きる人生です。
最近は日本でもチェロの認知度が高くなってきました。でも私が学生の頃はまだ珍しく、楽器を担いで歩いていると日に三回は「それ、なんですか?」と通りすがりの方から声をかけられたものです。タクシーに乗れば運転手さんに質問され、小さなお子様には「ママァ、あれなあに?」と指を指され……。
チェロのハードケースは縦が約一三〇センチとお子様がすっぽり入るサイズで、軽くするためにファイバーやカーボンの素材が使われています。人の形に似ていて目立つから好奇心をそそるのでしょうか、クイズのように中身を当てようとする方も結構多いのです。「ギターでしょ」「コントラバス!」「ハープ!?」「管楽器?」。さらには「テニスのラケット」や「ゴルフバッグ」まで。ひどいのは「掃除機ですか?」。……掃除機を持って歩く人はいないと思うけど。
それにしても、当時シャイな高校生だった私は、こうして見知らぬ方から話しかけられるのが本当に苦手で、道で視線を感じると「話しかけてこない! あなたは話しかけない!!!」と心の中で唱えていました。
そんな内弁慶だった高校生時代に今でもリアルに思い出す出来事か一つ。学校が閉まる時間まで練習した私が、最終バスに乗り遅れて駅でタクシーを待っていた日のことです。生憎の金曜日で長蛇の列。OLのお姉さんや大学生、サラリーマンの人々が整然と並んでいる中で突然大きな声がしました。酔っ払いのおじさん、しかもかなりガラが悪く、いろんな人に絡んでいる気配。皆黙って我慢しています。やっと次が私の番というその時、「お姉ちゃん、それなんだよ!」といきなり後ろからグイと楽器を引っ張られました。あまりのことに声も出ない私。周りの人たちも、世界中がフリーズしたようなその瞬間、おじさんとチェロの間に無言で割って入ってきた人がいました。一瞬あっけに取られながらも「なんだよ」と凄むおじさん、でもその人は一言も言い返さず、ただチェロを覆うように自分の身を楯にしているはかり……。剛を煮やしたおじさんが「なんとか言えよ、お前!」とその人の胸を突いたとき、私ははっとしました。「この人は喋れないんだ」と。
とんなにどつかれても、その人は一歩も引かず……いつたい何分経ったのでしようか。周りの人も非難し始め、やっと酔っぱらいおじさんが諦めてその場を離れるのと同時にタクシーがやってきました。「ありかとうございます」も言葉にならなくて、私は夢中でその人の手を握りました。その時に見たその人の目は今でもはっきりおぼえています。どんな言葉よりも雄弁に、「もう大丈夫、音楽、がんばってね」、確かにそう語っていました。それはもう二度と会うことがない方でしょうけれど、彼に一言では言い尽くせない大切なものを頂きました。どうやったらお返しできるのかずっと考えなから、あのときの気持ちは心の引き出しにしまってあります。
チェロを背負って歩く人生はいろんな人に出逢い、さまざまな出来事に遭遇します。心の引き出しが多ければ多いほど、音の引き出しも増えます。音のタンスに詰まつた――言葉にできないもの――をチェロで形にしていくのが私の仕事なのだな、と思う今日この頃です。
『日本の学童ほいく』2008年2月号、8-9頁 |